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こちらのページではケータイに関する情報を掲載していきます(LastUpdate 04/09/08)

 ケータイの普及は旧来の社会規範を破壊し、子供に対する大人の権威を揺るがした。このような現代において、われわれ大人に求められる役割とは何か?そして、破壊された社会規範の後にくる新しい規範が見いだされるときとはどのようなものか? 9月4日に東京大学で行われた情報学環・学際情報学府等の主催で行われたワークショップ(講演会)を聴講してきたので、その内容をNTTドコモモバイル社会研究所山川隆氏、柏市立旭東小学校の佐和伸明氏の講演を中心に私風にまとめた。

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 この日の講演会では「ケータイの教育と未来」と題し(ただし、自分は帰るときまで「ケータイの未来と教育」だと勘違いしていた訳ですが…(爆))、ゲストスピーカーがそれぞれのケータイへの問題意識、実験の発表を行った。ここではその中から特に、現代のケータイの社会的な位置づけを理論的な観点から分析されたモバイル社会研究所副所長の山川隆さんの講演、そして山川さんとは逆に小学校という現場でのケータイ利用の方法を模索した一事例である柏市立旭東小の佐和伸明氏の講演内容を中心に取り上げる。

 まずは、山川さんの公演内容からお届けしたい。冒頭、山川さんは現在および将来のケータイコミュニケーションの様相をとらえる方法のひとつとして、まずは旧世代の情報伝達メディアから、現在のケータイのようなメディアまでの変遷から学ぶべきいくつかのポイントをとらえ、技術というものを短期的な見方でとらえるばかりでなく、歴史観を持ったうえでその技術が社会に適用されたのちの社会の状況を考える必要があるとした。

 例えば「ライト兄弟」がなぜ初飛行に成功したかということを考えると、山川さんは「彼らは飛び上がることだけではなく、着陸することを考えていたから」だという。そしてこの事例が示すように技術というものは「できるか・できないのか」ではなくて、「使ってもらえるか・使ってもらえないか」という利用者側の論理によって評価がされるものであり、それをクリアした技術だけが「生存」できるものなのだとした。

 そしてそのような利用者側の論理というものの変化を追うためには、新しい技術や事象の意味するところに気づくかどうかが重要であるとし、例えばCSKの故大川功氏が「予兆」という言葉で表現していた、「何でもないことだが、後になってみるとこれがもとで世の中はかわり始めたのか」といった小さな萌芽を歴史観的な視点から見逃さないようにする必要があるとした。そして、例えば昨今話題になっているナンバーポータビリティの問題についても、なぜ固定ではそういった要求がでてこなかったのに、ケータイではこういった要求・問題が大きく取り上げられるのか、といった点が技術の生存を決める利用者側の論理というものの変化の現れの徴のひとつではないかとした。

 ただ、利用者がいかに新技術や新ネットワークを利用することの恩恵をわかったとしても、古い価値規範、またその手法が捨てることとがいかに難しいかという点も理解しなければならないとした。事実山川さんが勤めていた日商岩井などの商社業界においては、海外とのやり取りがインターネット普及以前から必要だったため、すでにテレックス網が構築されていた。しかし、そのテレックス網が整備されていたことが結果的に、本来は電子メールのような通信方法が一番必要であった商社において、電子メールの導入が大きく遅れたことにつながったという。また最近の例として、2Gデジタル携帯電話の発売から普及までに数年間の苦境があったことにふれ、2Gのデジタル携帯電話が1Gアナログ携帯電話に対して、技術的な面では先行していても、通話エリアや端末価格などの利用者観点からは評価されないため、2Gデジタル携帯電話の立ち上げに伴い苦境の期間が続いた例を挙げた。そして、そのような例が現在の3G携帯電話のFOMAが伸び悩んでいる状況にも適用できるとし、現在の状況もまた短期的な見通しではなく、歴史観を持って観察することが大切だということを訴えた。

  続いて山川さんはケータイなどのネットワークコミュニケーションを考える上で重要なこととして、知識伝達の方法が変化したことをあげた。

 原始から中世までの知識伝達の方法は、親や古老といったムラ規範のシステムに依存してきた。しかし時代が下り近代になると知識伝達の主役は学校教育などの社会システムへと移行し、さらに現代においては旧来のシステムでは伝達できない知識、つまり親や社会の教育システムより子供の方が先に知ってしまうような知識というものが爆発的に増大してしまったため、旧来の知識伝達方法は必ずしも機能しなくなってしまったという。そして、そのような旧来の知識伝達ではカバーできない最たるものがケータイなどでのネットワークコミュニケーションの技術ではないだろうかとした。

 そして、このような旧来のシステムでの知識伝達が不可能な知識の増大はまた、さらに旧来の知識伝達のシステムの権威を落とすことになり、その影響が最も現れているのが親の権威の失墜であり、ケータイの普及というものがそれに輪をかけた結果、今までの家庭規範が完全に崩壊してしまったという。

 そして「もし関係の方がいらっしゃったら申し訳ないが」と前置きされたうえで、「現在の様な社会状況においては、Lモードのようなものは絶対普及するはずがない」とした。山川さんによるとケータイの普及という事象は、家庭の規範にとどめを刺すものではあるが、そもそも家庭規範の破壊が進んでいない社会には起こりえないものだという。つまり、家庭規範が崩壊し個と個という関係が確立したからこそはじめて、ケータイの普及や、そしてそれに伴うi-modeという情報提供サービスが普及したのであるとした。そして、これだけ家庭規範が崩れ、個と個の関係が進んだ世界おいては、Lモードのような"家庭"をステーションとしたものの上で、パーソナルな情報サービスを提供しても絶対に普及する筈はないのに、i-modeが成功したからといって、それをそのままの形で家庭に流し込むLモードの発想というものは非常に安易だったのではないかと考えているという。

 そして山川さんはドコモ社内にてこのような話をするとまわりから「言っていることがよくわからない」という反応が返ってくるという(!!)。そこで山川さんは「iモードが普及するような世の中でLモードのようなものを普及させようというのは、江戸時代に自動車の生産ラインを機能させよう、というのと同じくらい荒唐無稽なことなのではないですか?」という例え話を社内にてするということだが、やはりその例えは会社の周りの人には理解されず「うーん、この人何言っているのかなぁ、という目で見られてしまいます」ということになってしまうという(……ほんとですか?あんまり信じたくないんですが…)。

 ところで、こういった家庭規範的な視点で各国にも目を向けてみると、山川さんはこういった子供にもケータイを持たせ、家庭規範の崩壊が特徴的に進んでいる日本のような現象世界的にもかなり珍しいもので、例えば欧米においては子供にケータイを持たせるということはほとんどないという(各国にて普及率が高いのはプリペイドケータイを大人が一人で何台も持っているため)。そしてそれはなぜかというと、米国人などにいわせれば、子供というものは高校高学年になって自分の車を持ったとき初めて子供が親の管理下から離れる環境というのが手に入るのであって、それまでは学校に行くにも親が送り迎えするか、スクールバスで行くかのいずれかしかなく、日本のように親元から離れ一人電車に乗ってお稽古にいくということがないため、子供の安否確認のため携帯電話を持たせるという発想自体、欧米人には理解しがたいものだからだという。


そして山川さんは、日本のように子供にまでケータイが行き渡ることによる、欧米と比較しての子供の過剰な個の確立の進行というものは、ひとつには親の権威を用いた子供の規律性を育てるというシステムを失わせるばかりではなく、生物の基本である親が子供をプロテクトするという機能自体もまた失わせるものではないかとした。

 だが、このように子供が大人の管理下から若年のうちから離れてしまい、ケータイなどの技術知識も子供の方が先を行ってしまう現代においても、まだ大人にできる知識伝達があり、それが「不易流行」という言葉に代表される、「不易」を求める子供の「流行」の手助けを伝達するという役割であり、人と人とつきあう上でのベースとなる規範概念を教えてあげることなのではないかとした。

 では、このような家庭中心の価値規範が崩壊した世の中において次に訪れる社会規範とは何なのだろうか?この点についてはやはり山川さん自身も明確な像は描けておらず、もどかしい思いだという。

 しかしながら、山川さんの上役であるモバイル社会研究所の所長の石井先生がいうところの「未来心理」、そして山川さん自身がいうところでは「彼岸からの景色(対岸から今のこの景色をみたらどうなるか)」というものから想像される将来の景色像という意味では、「もちろん今とは違う景色が見えるのではないかと思うが、それは今と100%違ったものといったものではなく、重要な部分でちょっとだけ違って見えるものなのではないか」という。

 では、その「差異」というものがどういうものなのかということについては、まさに山川さんらしい分かりやすいたとえだが、「列車」の変化というものが示された。つまり、芥川の小説にあるようにトロッコというものは、線路が二本ずっと並んで走っており、その上をトロッコが走っていくというシステムだ。つまり、ここにおいては誘導の役割、そして動力の供給においてすべての線路というものに依存している。そして、次の汽車というものは、やはり線路の上を列車は走っているのだが、機関車が動力が客車を引っ張っていくという意味ではトロッコとは少し違う。では、電車はどうだろうか。確かにこれも機関車と同じと考えることもできる。しかし、山川さんがある時ひらめいたのが、この電車というのは、動力を供給する電線、そしてATS等の列車制御システムという動かない装置と、電車という動く装置すべて含めて全体がひとつの機械システムであり、その中を走る電車というものは汽車の時代でいう客車にすぎないのではないかということである。

 そして、そういうように電車というものを眺める視点の変化というものを手に入れた時、総体としては大きな差はないのだけれど、その視点を手に入れた人に取っては電車というものが今までと違って見えてくる。そして、こういった小さな差異ではあるが大きな視点の転換を招くようなものが、ケータイでもやはり普及過程において現れてくるだろうから、そうういった点を見つけ、それが新しいシステムであるとしっかり言えるようなつながり合った形を作れれば、次世代の新しい価値規範というものが見えてくるだろうとした。


山川隆氏
 また新しい価値規範を考える上での例示として山川さんがもうひとつ取り上げたのが迷惑メールへの対処の問題である。山川さんが、以前に裁判官の知人とたまたま迷惑メールの問題について話した時、知人から「迷惑メールの横行をよく事業者さんは迷惑メールを防止する法がないからだというが、問題の所在はそこではない。法で対処するにしても、例えば迷惑メールの顔をした詐欺メールというものが多いように、見方を変えることで現行法の枠内で対処できるのだから」と指摘されたという。

 そして山川さんによると、まさにこれこそが新しい価値規範の事例であり、「新しい価値規範」というものは完全にどこからか新しいもの(ここでは迷惑メールのためだけに作られた法制度)を押し立てて誕生するものではなくて、現実の中に既にあったものではあるけれど、今までとはひと味違う、ふた味違うものというものが世の中に出てきて、気がついてみるとそれは今までのものとは違う、トロッコではなくて電車というものを含んだ全体的な運行システムなんだな、ということがわかることによる展開という小さな違いというものが、社会の新しい価値規範になりうるのではないかとした。

 講演概要としては以上の通りであるが、最後に個人的な感想を一点付け加えたい。ここまで読んでいただいた方はお分かりいただけると思うが、講演の最後にいたっては、迷惑メールの法整備の話など"ドコモ"のモバイル社会研究所の副所長とは思えないような(笑)、会社人の立場を超え、モバイル社会研究所の副所長としての、ご意見を披露されていた山川さんだったが、そういった立場を超えた発言をされていたにも関わらずやはり来場者の多くの人に取っては、"ドコモ"モバイル社会研究所の山川さんが来ているのだ、ととらえてしまうらしい。質問タイム(といっても今回の講演では事前に休憩時間にアンケートを回収し、その書き込みに対して各講演者がコメントをつけるという進行だったが)での質問も、"モバイル社会研究所の山川さん"に聞くべき内容というよりも、ドコモ自体に聞いたほうがよいのでは、と思うような質問もあった。そしてそれらの質問にやはりドコモの社員としての責務で答えるため、山川さんが"ドコモ"の一社員に戻り、関係ない部門の問題について会社の見解を代弁する姿を見て、いかにモバイル社会研究所やそれに関わる研究者の人達がそれ自身では超党派的な組織であり研究をするのだ、といい、もし実際そのとおりの超党的な成果を上げたとしても、それがまわりにいかに評価されるかという点において、企業内で超党派的研究を進めるとことに対する難しさというものを感じた、ということを一言感想として述べておきたい。

           | 1 2 |  佐和氏の講演に続く

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